種まき工房

疲れたココロが、少しでも軽くなりますように。そんな「願いの種」を一粒ポロリ。

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さまよう自分

また、さまよいかけている…。

作品展の後に、やってくる
「自分を見失う」波とはまた違って
昔「私はしんどい方に寄りそわせて頂くことにしよう」
と決めたときのさまよいに近い。

その要因は、この頃
しんどい方たちに寄りそわせて頂く
スタンスだけではなく
しんどさ方たちの思いやら
その方たちへの対応やら
その必要性やらを
行政、テレビ関係者、必要と思われる役職の方たちに
訴え(伝えるというより訴えるがピッタリくる)に
いくことが多くなったからだ。

ココステに関わるようになったことも
そういう機会が多くなった
一つの要因であろう。

でも今も昔と同じように
伝えても伝えても、そのことの重大性は伝わらない。
私の言葉は伝わらない。
それが、しんどさの大きな原因となっている。

昔、決めたはずなのに。
訴えている、その間にも
しんどい人がバタバタと倒れ込んでいく。
その姿をみて、しんどい方に寄りそわせて頂く道を
歩いていくことを決めたはずなのに。

私が訴えなくても、訴えていく人はいる。
そういうことが得意な人はいる。
だから、変革はそちらは人に任そうと思った。
そして、私にできることなど
小さいとはわかっていたが
その小さな中で、自分のできることを
コツコツとしていこうと思った。

なのに、また今
あの悶々とした、やり場のない思いに
包まれている。

うつの番組で言えば
体験者という立場で、番組に出させて頂くことに
もちろん意味はあるだろう。
しかし番組は、それを企画し
組み立てている人たちの思いで成り立っている。

そこで感じることは
番組で、うつを取り上げて頂いているだけで
その現場には、うつ当事者の意識は
存在しないということだ。
それゆえに「そうと違うねん」
という感覚がわきあがってくる。

家事ができないことが死ぬほど辛い
と感じている人が話をするスタジオに
「洗濯物が干してある」その感覚。
番組のつくり手サイドの方たちからすれば
「日常的な空間の中で」という
思いやりから、そうなったのだ
ということはとても感じる。

でも…やっぱり違うよなぁ。
その無意識の意識の中に
「女性=家事」のイメージがすでに存在し
それが「女性のうつ」を生んでいるんだよなぁ。
やはりどれほど考えてくださったとしても
やはり限界があると感じるし
その限界をわかって頂ければとココロから思う。

これは、子育て支援にも言えることだろう。
子育て支援と呼ばれる中で
本当に必要な感覚、不可欠な視点。
それが、ずれているものもあるように感じられる。
「あなたのことを思ってしてあげているのよ」
という思いに、利用させて頂いている側は
「ありがとう」と言わなければないのか…。

戻ろう、元の居場所に。
私の道は、やっぱりここじゃない。



Posted by 種まき at 00:03